初夢で叶った僕の長年の夢

2017年の初夢で親父の夢を見た。

僕の親父は僕が26才の時に胃癌で逝った。

昔から胃が弱く常に太田胃散を常飲していた。背中まで痛みを訴えた時、市民病院に行った処、緊急入院となった。そしてその後の検査で、余命3ヵ月との宣告を受けた。癌の事は親父には死ぬまで知らせなかった。

「医者は悪い事だけは言い当てる」とは妙で、医者の宣告通り3か月後に病室で母親に抱かれて死んだそうである。

入院中明石に掛かる大橋のTVニュースを見て「オレは、あの橋は渡れんなぁ」と母親に言っていたそうである。

親父はパイプラインを構築する職人で僕が小学生の頃は中近東やアフリカへ、石油のコンビナートを造る仕事で年中家には居なかった。サソリの燻製だの、サハラ砂漠の石や、原住民に貰ったという木彫りの像の置物など妙なばかりの土産を持ち帰る寡黙な人だった。

僕と弟は親父に叱られた記憶はほとんどない。何をしようが何処で遊ぼうが、いつもニコニコして頷いて子供らがしたいということはなんでもさせてくれた。

小学校の時も校則で禁じられていた子供同士のキャンプも「おぉ、行ってこい!」と自由にさせてくれた。友達と能登へ行ったキャンプは台風に見舞われ、最後は自衛隊の救助と相成った。でも、それは今でもとてもいい思い出となっている。

親父は大人しく社交的ではなかった。

休日もいつも家にいて、一日中競馬新聞を読んでいるのが唯一の楽しみのようだった。

家は決して裕福ではなかったが、自転車やグローブなどは常に買い与えられた。のちに聞けば、そういう時は叔母の元へお金の工面をしに常に行っていたようである。

今年の初夢で、その親父が現れた。

どこか古臭い喫茶店で一人コーヒーを飲みながら、いつものように競馬新聞を見ている。そこへ僕が一人で親父に近寄ると、少し驚いたように顔を上げる。鼻から少しずり落ちた黒縁の老眼鏡を掛けていた。

僕は親父を見下ろすようにして、テーブルに裸の五千円札を置いて「少ないけど、軍資金にして」と親父に言う。軍資金とはもちろん親父の好きな競馬の馬券代だ。競馬をすると言っても、一日のうち連勝複式馬券を数レース数千円で遊ぶ程度なのだ、いつも。

僕がそういうと、親父はさらに驚いた様子で口を開けて僕を見ていた。その後の親父の様子は見ないで、僕は振り向いて店を出た処で目が覚めたと思う。
親父のことは普段は思い出さないのに、初夢に出てきた。目が覚めてしばらく、その夢のことを頭の中で考え巡らせていた。

「なんで五千円しかあげなかったのだろう」

もっとたくさんあげればよかったのに、なんで五千円だったんだ。数万円くらいあげればいいじゃないか。

しばらくして、僕はある事を思い出した。

親父が死んで、僕はひとつだけ後悔し続けていることがある。

それはまだ親父が生きていた頃、成人になった僕を駅まで車で送っていっている最中だったと思う。僕は二十歳過ぎから一人暮らしをしていた。

車中、駅に着く直前くらいに運転していた親父は僕に「少しでいいからお金を貸してくれないか」と頼んできた。おそらく頼みにくかったのか、駅に着く直前にそう言ったのだ。

僕は咄嗟に「貸すほどもない」とそっけなく言った。

「そうか」と少し苦笑いしたように親父はそれ以上何も言わなかった。

僕はその時嘘を付いたんだ。

実は当時、割のいい仕事をしていたのでいつも財布の中には数万円あった。それなのに僕は「無い」と言って、親父にお金を渡さなかった。

その理由は、いつも競馬でみみっちく遊ぶ親父が当時の僕は嫌いだったのだ。そして子供に偉そうに断られて、苦笑いする親父はもっと嫌いだった。

二十歳前後は、なんかそういう親父に常にイライラしていたのを記憶している。

親父が病院で息を引き取った時、僕は商業劇場の舞台監督をしていた。本番中舞台袖で進行役をしていた時、後ろから先輩に「ウシオダ、家に帰れ!」と呼ばれて慌てて家に帰ったのを覚えている。

すでに親父は棺桶の中で、家に帰ってきていた。

親父が死んで親父の事を考える時、僕は常にあのシーンを思い出して後悔していた。

「少しでいいからお金を貸してくれないか」

なんであの時「わかった、その替わりレースに勝ったら倍にして返してや」くらいの冗談と笑顔で小遣いを渡してあげなかったのか。

悔いても、相手はもう死んでしまっている。

もう数えきれないほど、僕はそれをリフレインしてきた。そして後悔してきた。

今年の初夢で、親父が現れた。

そして僕は、その親父に五千円を少し照れながら渡した。

僕はその夢を振り返った時、忘れ去っていた親父の言葉をはっきりと思い出した。

親父が僕に車の中で頼んだ言葉は「少しでいいからお金を貸してくれないか」ではなく「五千円でいいから貸してくれないか」だったことを。
そうだ、そうだったんだ。

「五千円でいいから」と親父は言ったんだ。

それを僕の潜在意識が覚えていたので、あの夢の中で五千円札を親父の前のテーブルに置いたのだ。

年末仏壇の掃除をする時に心の中で「おふくろは入院で帰って来れそうにないけど、まだ気丈夫だから大丈夫」と位牌の親父に言ったことを思い出した。
子供にとって母親という存在は絶対的なものだ。

しかし男親というもの、特に男の子供からみれば母親の存在とはまた違う。母親が絶対的なものなら、父親という存在は相対的なものなのかもしれない。

相対的であり、その上幼い頃はその間に距離がある。自分から見て真逆的な存在。だから歯向かい、嫌になり、距離を取ったりするのかもしれない。

やがて年を取るごとにその距離は近づいていく。親父の年に近づくにつれ、親父の気持ちや行動していた事が肌でわかるようになる。(なるつもりかもしれなが)

そして、父親が子供にしてくれた有難さをいつしか感じる。

しかし、心からお礼を言いたい時にはその存在は居ない。

初夢に現れた親父は、きっと僕にもうそんな後悔はしなくていい、というメッセージで現れてきてくれたのだと思う。

その夜、僕は仏前の線香と共に親父の好きだった「さらばハイセイコー」の曲をかけてあげた。。。


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