伯父のお葬式が滞りなく終わりました。
お悔やみを頂きましたみなさんありがとうございました。
伯父は多くの人に見送られて、旅立っていくと思います。
通夜、葬儀の席で久しぶりの母方の親戚と会いました。
僕の母方の親戚は少なくなりました。理由は1995年の神戸大震災で家屋の下敷きとなり亡くなったからです。
それを歯切りに親戚をはじめ、近しい人の死を多く見てきました。若い頃の親父の死を見て、僕は「死ぬ」意味を考えてきました。
そして自分なりに得た答えは、死というものは永遠なる魂の遍歴においては一時代の区切り程度くらいのものであり、学校でいえば1時間目が終わり2時間目に入る時の1時間目の終わりのようなものだ、ということがわかった。
生まれるという事象も死ぬという事象もそう重要ではなく、その間(人生)に何を知り得たか、ということが重要なのだということがわかった。
知り得ることとは「真理」だ。
死というものは実は日常茶飯事に起こっている。何気に別れた人と残りの人生で会わない、ということは間々あるだろう。考えればそれも一種の死と同じだ。人生の中の「縁」の終わりということ。
死は生命の終わりを意味する。
はじまりがあり終わりがあるというのは宇宙の法則の一つだ。星ですら亜空の時間単位ではじまりがあり終わりを迎える。
大事なのは「意味」を知る事だ。
起こる事象はそう重要ではない。
今のスマートフォンを持つ人たちに、どれほど自己の存在理由を考え、生きていく中で「真理」を見つけようとする人がいるだろうか。